前書き
松平啓子
2012年8月27日
1986年10月、夫(松平他家夫)と私は当時6歳の息子と1歳の娘と共に、日本から夫の仕事のために渡米しました。会社から派遣されて来たわけですが、今思いますと、渡米は、私たち家族が、私たちの天のお父様である神様を知るための神様の大きなご計画の一部でした。現在(2012年8月末)で23年になるアメリカ生活の中で(2003年秋~2006年12月の3年間は日本)、夫も私も子どもたちも人生で最も大切なものー神様との出会いと信仰―を受け取りました。夫は8月18日に天に召されましたが、神様は夫の信仰と生き様、特に最期の2年半にわたる癌との闘病生活を通して、残された私たちの心に、神様のご真実と愛、聖書に記されたお約束の確かさをしっかりと刻みこんで下さいました。このサイトに掲載した夫の証しや文章を通して、読んで下さる皆様の上にも神様の豊かな導きと祝福がありますようにと心からお祈りいたします。今後少しずつ、夫の書いたもの、説教の原稿などを足していきたいと願っていますので、どうぞ時々チェックなさって下さい。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
新約聖書ヨハネの福音書3章16節
この恵みを伝えたい!
アナハイム・フリーメソジスト教会牧師 松平他家夫
2012年2月6日
私は1986年、37歳の時に仕事の都合で家族と一緒に北カリフォルニアのシリコンヴァレーに、エンジニアとして赴任して来ました。赴任当初から、私は工場立ち上げのために、日本にいた時以上に長時間働かなければなりませんでした。そのために家庭を犠牲にし、子供たちのことは妻に任せっぱなしで、妻ともうまくいっていませんでした。
そんな折、1992年の春、妻は娘の小学校で知り合ったクリスチャンの友人に誘われて中国人教会の英語部に通うようになりました。聖書の御言葉が飢え渇いていた彼女の心に沁みこんでいき、彼女は一ヶ月余り経ってイエス様を信じました。妻が洗礼を受けたいと言った時、私はそれがどういうことなのか分からず、「あまり深入りしないで欲しい。」と言ったのですが、妻はクリスチャンになって、生きる喜びが与えられ、夫婦関係にも変化が現れて、私は信仰とはそんな力があるものかと驚きました。
ところが、私自身は進化論や唯物論を信じていたので、神様の存在すら容易に信じることができませんでした。一方で、そのころ仕事一筋にやってきた私は心の中に空しいものを感じ始めていました。終わりのない技術競争の中で、常に追いかけられるように仕事をして大切な人生を終えたくない。一体人生の本当の目的は何なのか。私はそれに対する答えを持っていませんでした。
家族と一緒に教会に通うようになって一年近く経ったある時、ハーベストタイムのビデオで、あるクリスチャンの男性が、「人生には、神様を信じて神様と共に歩む人生と、神様はいないと信じて一人で歩む人生のどちらかしかないのです。私は、神様と共に歩む人生を選びました。」と証ししていました。それを聞いた時、それまで聖書の中に記された奇跡がわかったら神様の存在を信じてもいいと思っていた私の心に変化が起きて、私も神様と共に歩む人生を選んでみようと思いました。
神の存在を受け入れ、その神が私を愛して下さり、御子イエスの命を犠牲にしてまで私のすべての罪を赦してくださったのだと分かったとき、私は主イエス・キリストを私の救い主として素直に信じる決心ができました。そして、1993年の4月、私に先立ってイエス様を受け入れた二人の子どもたちと一緒に受洗しました。神様のことが良くわかったから信じたのではありませんでした。信じる決心をして信仰告白をした後で初めて、神様のことが理解できるようになったのです。心の中にあった空しい思いがなくなり、神がおられることによって初めて人生に意味があり、神こそ希望の源であるとわかってきたのです。
一旦信仰をもつと、聖書を読みたい、イエス様のことをもっと知りたいと思うようになり、さらに、罪の赦し、永遠の命、キリストにある平安という福音の豊かな恵みを一人でも多くの人々に知ってもらいたいと願うようになりました。特に、日本人に福音を伝えたいという強い気持ちが湧いてきて、妻の啓子と私は私たちの信仰を育ててくれた中国人教会を離れて、1998年、当時梅北伸雄先生が牧会されていたペニンスラフリーメソジスト教会の日語部に籍を移しました。
その後、2000年のサンタ・バーバラの夏季修養会で、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)というイエス・キリストの招きの御言葉によって、残りの生涯を主のために献げるように導かれました。51歳のときでした。すでに献身の決意を与えられていた妻と共に夫婦で主に仕え、神の恵みを伝える新たな道が開かれていきました。
2003年11月、仕事や家庭の事情が最善へと導かれ、私は26年間のエンジニアの仕事に終止符を打ち、東京聖書学院にて牧師になるための学びと訓練を受けることになりました。3年間の神学校の訓練を終えて妻とともに卒業し、2007年1月にアナハイム・フリーメソジスト教会に赴任してきました。
教会は伝道・宣教が使命です。アナハイム教会が神の恵みを伝える教会となるように祈りつつ牧会を始めました。最初の2年は教会の内側が整えられるように「互いに愛し合う教会」、「みことばを愛する教会」という標語を掲げました。その後は、「証する教会」「喜んで迎え入れる教会」という標語のもとに目を外にも向けていくようにしました。こうしてアナハイム教会での牧会に携わって4年目の2010年3月、私は肺がんの第四期との診断を受けたのでした。
闘病記 -私たちには希望がある-
牧会4年目の2010年3月、思いもかけない肺がんの第4期との宣告を受けました。タバコを吸ったことがなかったので、すぐには信じられませんでしたが、病巣の組織検査やCTスキャンのデーターを前に深刻な事実を受け入れざるを得ませんでした。私は、「神様。どうしてこんな試練に遭わせられるのですか。」と問い掛けながら、一方、この絶対絶命のピンチの中で、主に信頼する以外に道はないと思ったとき不思議に平安が与えられました。妻は、教会の様々な奉仕を担いながら、私のために食事療法を始め、生活の様々なところで闘病生活を支えてくれました。多くの方々が私と家族のために祈って下さり、憐れみに富む神様は時にかなって治療を導いてくださって、私の癌は劇的に癒されていき、今は検査で見える限り左肺に小さな病巣を残すだけとなりました。
治療が続く中で、2010年9月から毎週の礼拝に出席することができるようになり、これは神様の恵み以外の何物でもありません。2011年9月からは月二回講壇に立っていますが、神様のみことばを伝えられることの幸いを深く感謝しています。
癌との闘病生活の中で、私はイ・ヒィデという韓国人ドクターの手記を読んで大きな励ましを受けました。彼は韓国の癌学会の理事長を経験され、自ら大腸がんを患い、その後も10回に及ぶ骨への転移と闘ってこられた方です。手記には「癌も祝福に変えられる」と記されており、癌と闘って生活している多くの人々に、「癌の第四期が最後ではない。キリストが与えてくださる『命の第五期』があるのだから、勇気と希望を持って生きていきましょう。」と励ましておられました。
『命の第五期』とは、神が与えて下さった命に生きるときであり、死の恐れを越えて永遠の命に生きる希望のときだと記されています。癌との闘いは、決して容易ではありません。しかし、私たちは癌になってもならなくてもいつの日か地上の命には終わりがやっています。私は私を生かして下さる神に信頼して、与えられた命の限り、闘病生活を続け『命の第五期』を生き抜きたいと願っています。
詩篇の記者が、「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。」(詩編46篇1-3節)と歌ったように、病気が癒されても癒されなくても、地は変わり山が動いても、私たちには変わることのない希望、揺らぐことのない希望があります。
この希望はこの世の富や名誉にあるのではなく、私たちがイエス・キリストを主と信じた時から私たちに与えられた永遠の命にあります。この命によって私たちはキリストに似た者へと変えられていき、身体の死を超えて、いつまでも神と共に生かされるのです。この希望によって私たちは、闘病生活の中でも生きる力が与えられます。この希望は、恐れや不安の中でも神様への信頼を強くしてくれます。そして、神と共に生きる喜びを他の人々にも伝えたいと立ち上がる力を与えてくれます。神様は私たちを無条件に愛してくださっています。ここに私たちの希望があります。